大分家庭裁判所豊後高田支部 昭和49年(家)13号 審判 1975年1月31日
申立人
甲野一郎
大正二年六月二二日生
主文
申立人は無籍につき
本籍 大分県西国東郡○○町○○五八〇一番地
筆頭者 甲野一郎
父母 不詳
父母との続柄 男
名 一郎
出生年月日 大正二年六月二二日として就籍することを許可する。
理由
一申立人は、主文同旨の審判を求め、その事由として、次のとおり述べた。
(一) 申立人は、大正二年六月二二日、日本で出生し、今日まで終始同国内において居住生活してきたものであるが、物心がついた頃は、母(当時乙山アイ子と名乗つていた)と共に福岡県○○○市内の豪農丙川二郎方に住み込みで稼働していた。
父とは会つたこともないし、名前も知らない。
申立人が出生した正確な場所は明らかでないが、幼時右母からときどき、鹿児島県の南の方で生まれたと聞いており、日本以外の場所に住んだり、日本以外の場所から日本に移住もしくは連れてこられたような記憶は全くないので、出生地は日本国内であり、生年月日もこれまた幼時母から聞いた大正二年六月二二日に相違ないものと信じている。
(二) ところで、申立人は右丙川方では、小学校にも上げてもらえず毎日農事に酷使されたので辛抱しきれず、数え年一三才の頃母にも無断でひとり同家を飛び出して八幡市(現北九州市八幡区)に出、○○飯場その他の土工飯場を転々とし、炊事雑役夫等として働くうち、鳶職の仕事を覚え、昭和一八年頃からは本職の鳶職人として八幡製鉄所(現新日鉄)関係の建設工事に就労するようになつた。
(三) その後同一九年一一月三〇日同市内で労働下宿を営む未亡人の甲野キミエの入婿となり、爾来同女と夫婦として同棲していたが、戦後の同二〇年九月同女の縁続きを頼つて大分県○○市○○町に転住し、さらに同二三年九月同県西国東郡○○町○○所在の国営開拓地に入植して農業に従事し現在に至つている。
なお、母の前記乙山アイ子とは、丙川方を出た後全然会つておらず、音信不通のまま今日にいたつている。
(四) その間、申立人は右キミエとの間に昭和二一年一月一九日出生の長女千代を儲けた。
(五) 申立人は、前記のごとく学校にも行けず、文盲同様であることと、入婿のかたちで甲野キミエと結婚(事実上の)しておつたので、戸籍関係のことには無関心で、右入植の申込みも妻の名義でし、公租公課等もすべて同女名義で納めてきた。
(六) ところが、右長女千代の中学進学時に同女がいわゆる私生子(母の子)となつていることを知り、同女を嫡出子とするため申立人の戸籍関係を調べたところ、申立人は無籍となつていることが判明した。
(七) それで、幼時の記憶を辿つて、昭和三三年頃前記丙川二郎方を訪れ戸籍関係を調べようとしたが、右二郎は申立人を朝鮮人であると申し、また申立人の母(乙山アイ子)のことは全く関知しないなどと頑くなに言い張り、同女の生死、所在も確認できず、申立人の本籍を聞き出すことはできなかつた。
(八) その後も、現住所の○○町役場戸籍吏員等の厚意により申立人が幼時母から聞いていた申立人の出生地が鹿児島県のずつと南の方であり、姓は乙山であるということを頼りに、同県内の南西諸島を含む心当りの場所に次々と照会し調査をしてもらつたが、ついに申立人の本籍を発見することができず、同四九年七月一〇日大分県地方課ならびに同町吏員の勧告・指導により一応無国籍として外国人登録法所定の外国人登録をした。
(九) しかしながら、申立人は日本で生まれ、かつその父母がともに知れないか、国籍を有しないときに該当すると考えるので、日本国民たる要件は具えており、ただその本籍が不明な場合に当るにすぎず、当然日本国内にその本籍を設定することが許されるものであるから、戸籍法第一一〇条第一項、特別家事審判規則第七条に基づき就籍許可の裁判を受けるため本申立に及んだ。
二よつて、審按するに、就籍は、本来本籍を有し得るものであるのに、未だこれを有しない者について本籍を設定することをいうものであつて、無籍者は勿論、本籍の有無が明らかでない者でも、日本国民であれば許されるものと解される(東京高裁昭三七・一〇・二五決定、家裁月報一五巻三号一三六頁参照)のであるから、本件申立の許否を決するには、申立人が日本国民であるか否かが先決要件であるところ、日本国民たるには、国籍法第二条各号所定のいわゆる血統主義もしくは生地主義による国籍取得の要件を具えるか、同法第三条所定の帰化によることを要するものである。
ところで、申立人は、同人が同法第二条第四号所定の「日本で生れた場合において、父母がともに知れないときまたは国籍を有しないとき」に該当して、日本国民たる資格を有し本籍を有し得るものであると主張するので、まづ申立人が「日本で生れた場合」に該当するか否かについて検討するに、<証拠>を綜合すると、以下の事実が認められる。すなわち
(1) 申立人は、物心がついた頃は、乙山アイ子と名乗り、申立人の母だという三〇才台の女性と共に、福岡県○○○市○○町○○○三四〇番地所在の農業丙川二郎(当時四〇才台)方に住込みで働いており、申立人は乙山一郎と称ばれておつたこと。
(2) 申立人は、右母から、申立人が生まれた場所は鹿児島県のずつと南の方で、生年月日は大正二年六月二二日であると聞かされていたが、父親のことについては何も聞いていないこと。
(3) 右生年月日のことは、その後転職の都度尋ねられ、これを復誦して来たので、忘れず今日に至つておること。
(4) 丙川方には物心がついてから数年間働いていたが、同人方は豪農で小学校へも上げてもらえず、早朝から夜晩くまで農作業や藁打ち等に酷使されたので、辛抱しきれず、数え年一三才頃に、母にも無断で右丙川方を飛び出し、福岡県八幡市(現北九州市八幡区)に出て、○○飯場その他土建関係の飯場を転々とし、炊事雑役夫等として働くうち、見よう見真似で鳶職の仕事を覚えたので、その後これを本業とするようになり渡部正男(昭和二二年頃死亡)らを雇い、八幡製鉄所(現新日鉄)関係の煙突建設工事等にも従事しておつたこと。
(5) その間申立人は、甲野キミエが経営していた同市○○町二丁目所在の労働下宿に止宿していたが、申立人の真面目な性格が買われて同一九年一一月頃入婿のかたちで同女と結婚するにいたり、爾来同女と内縁の夫婦として生活していたが、終戦翌月の同二〇年九月同女の縁続きを頼つて大分県○○市○○町に転任し、さらに同二三年九月には右キミエの出身地である同県西国東郡○○町に移り同町○○地区の国営開拓地に入植するに至つたこと。
(6) しかして、その間の同二一年一月一九日には両人の間に長女千代が出生したこと。
(7) 申立人は、学校教育を全然受けず文盲に近かつたことと、入婿のかたちで右キミエと結婚(事実上の結婚)したので、戸籍関係のことには関心がなく、右入植の申込みも右妻キミエの名義でし、公租公課等もすべて同女の名義で納めてきたこと。
(8) ところが、右長女千代の中学進学時にいたつて申立人と右キミエ内縁の夫婦関係であるため、右千代が私生子(母の子)となつており、同女を嫡出子とするためには、申立人等が正式に婚姻しなければならないものであるということを知り、慌てて申立人の戸籍関係を調べたところ、申立人は無籍となつているということか判明したこと。
(9) そこで、幼時の記憶を辿つて昭和三三年頃前記丙川二郎方を訪れ、申立人の母(同女とは前記のごとく右丙川方を飛び出した後全然会つておらず、音信不通のまま経過していた)のことを尋ね、戸籍関係を調べようとしたところ、右二郎は申立人が幼時右二郎方で働いておつたことは認めたが、申立人の母乙山アイ子のことなどは全く関知しないと頑くなに言い張り、剰さえ申立人のことを朝鮮人であると言い、結局右乙山アイ子の生死、所在も確認できず、同女について申立人の本籍を聞き出すすべ等は全くなくなつたこと。
(10) その後も、現住所の○○町役場戸籍吏員等の協力を得て、申立人が幼時母からときどき聞いていた申立人の出生地が鹿児島県のずつと南の方であり、姓は乙山であるということを唯一の手懸りに同県内の南西諸島を含む同姓関係者等につき鋭意照会・調査を反覆してもらつたが、ついに申立人の本籍は発見することができず、加えてその母乙山アイ子の戸籍関係も明らかにできなかつたので、同四七年七月一〇日、同町吏員や大分県地方課係員等の勧告、指導により一応無国籍として外国人登録法所定の外国人登録をしたこと。
(11) しかし、申立人は前記のごとく、ようやく物心がついた時は日本国内である○○○市内に居住しておつて、日本語しか話せず、また日本以外の場所から連れてこられたような記憶もなく、母からは鹿児島県のずつと南の方で生まれたのだと聞かされていたので日本で生まれた日本人であると確信しており、前記甲野キミエと知り合つた際も、また○○町○○開拓地に入植した当時も、さらにはその後今日に至るまで終始一貫して「自分はくわしいことは知らないが、母から鹿児島県のずつと南の方で生まれたと聞かされ、そう信じている」旨語つておつて、右外国人登録も本籍調査に協力してくれた○○町役場吏員等の厚意に報いるため、その勧告・指導に従つたに過ぎないものであること。
(12) 前記丙川二郎は、申立人は朝鮮人であり、右丙川方を出る際も、「故国にいる母が病気のため帰国する」と言つて朝鮮に帰つたものである旨述べているが、直接申立人自身から同人が朝鮮人であるということを聞いたわけではなく、知り合いの周旋人から「朝鮮人を世話しよう」と言われ、その後申立人が連れてこられたので同人を朝鮮人であると思つているということであつて、申立人が朝鮮人であるということを同国人や書類その他客観性のある資料等によつて確認したものではなく、また仮りに申立人がその母が病気で朝鮮に帰国したというような事実があつたとすれば申立人は断片的であつても朝鮮に関する知識を有する筈であり、朝鮮語を解し、またその後も同国人との間に何らかの交際・連絡等がなければならない筈であるが、内妻キミエを含む申立人を知るすべての人が申立人において朝鮮語らしい言葉を口にしたり、片鱗だに朝鮮のことについて話したり、または同国人が申立人を訪ねて来た等のことは全く見聞しておらないので、前記丙川二郎の供述は極めて曖昧不確実なものというべく、同人の該供述から申立人を朝鮮人であると断ずることは到底できないこと。
(13) むしろ、申立人は北九州もしくは大分県北部地方の住民が話す平均的な日本語を話し、その発音、抑揚、話しぶり等に少しも奇異の点がなく、かつ同人は日本語以外は話さず、朝鮮語、中国語等は全く解しないし、その生活様式にも地域住民のそれとの間に些かの乖離も存しないこと。
(14) 申立人の外貌は、眉毛、眼瞼、頬骨、鬚髯等の形状・状態からみて、平均的な朝鮮人もしくは中国人よりはむしろ鹿児島県南西諸島方面住民を含む日本人の平均的容貌により近いこと。
尤も、昭和四九年一一月二日開催の日本人類遺伝学会第一九回総会における鹿児島大学医学部寺脇保教授の研究発表(同総会議事録研究発表の部参照)に依れば、鹿児島県南地域ないし南西諸島における平均的住民は、東南アジア・台湾等のいわゆる南方系民族の影響が大で、朝鮮半島及び満・漢・蒙大陸系に属する平均的な朝鮮民族または中国民族とは実証的に、その(イ)血液型(ロ)指紋(ハ)耳垢型(ニ)味盲(ホ)二重眼瞼頻度(ヘ)蒙古襞等の諸体徴において有意差ある相違がみられる旨であるところ、申立人の場合は右識別因子中(ハ)(ホ)(ヘ)について南西諸島の平均的住民により近いことが推測されるだけで、その余についてはいずれとも明断し難いものがあること。
(15) 申立人は、性格が真面目で勤勉であり、犯歴・非行歴等は全くなく、現在みかん園五〇〇アール、そ菜園二〇〇アールを耕作経営し、開拓団地住民の中で、とくに信望が篤いこと。
(16) ところで、福岡入国管理事務所も、入管行政の立場から独自に調査を進めていたが、申立人が日本人もしくは日本で生まれたということについてこれを裏付ける積極的かつ直接の証拠が全く見当らないという事由で、出入国管理令第二四条第七号該当者として強制退去手続に着手したところ、申立人が当裁判所に本件申立をなしたため、慎重を期して右手続を停止し、一応当裁判所の審判待ちという状況にあること。
以上の事実が認められ、右認定を覆すに足る反証はない。
三ところで、わが国籍法は、子の国籍取得について、「その父(父が知れない場合または国籍を有しない場合には母)が日本国民であるときは日本の国籍を取得する」(国籍法第二条第一号ないし第三号)旨規定し、原則的には、親子関係を基礎として父または母が日本人であるときは、出生地が日本国土の内外いずれであるとを問わず出生子に日本の国籍を付与するという、いわゆる血統主義(同一民族の共同体ないし血縁共同体としての国家の構成を重視する立場)に立つているが、この主義を厳格につらぬくことによつて生ずる反面の弊害である無国籍者の増加ということを可及的に防止すると共に、国家の地縁共同体たる性格にも着目して日本の領土に出生し、そこに住居を定めて社会的、経済的に国家構成の人的要素となり、文化的にも同化しているものを積極的に自国民として包摂するという国益目的のもとに、「子は、日本で生れた場合において、父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないときは、日本国民とする」(同法第二条第四号)と規定し、子の出生地との地縁関係を基礎としてその父母が日本人であると外国人であるとを問わず、日本の領土内において生まれた者には、すべて日本の国籍を付与するという、いわゆる生地主義を併わせて採用しており、それはすぐれて高度の政策的考慮の上に立つた法律的所産であるというべきである。
したがつて、右生地主義を規定した同条第四号所定の「日本で生れた場合」という要件については、積極的に日本で生まれたという証拠ないしは出生の場所を公証する戸籍の記載もしくはこれを裏付ける出生届、出産証明または目撃証言等という直接証拠を欠いても、その者が現に日本領土内に居住生活しておつて、外国々籍を有するとか、または日本以外の場所で生まれ、その後日本に移住もしくは連れてこられたものと認められる明らかな消極(反対)証拠がなく、かえつて価値的に日本で出生したと評価し得られるような情況的事実を具えるものについては、これを「日本で生れた場合」と認定しても、前記のような立法趣旨を有する同条の合目的々解釈として許されるものといわなければならない。
この点、同じく国籍取得原因である血統主義(同条第一号ないし第三号)における「父子関係」または「母子関係」という要件については、身分的事実確定の厳格性から、嫡出性が法律上(民法第七七二条)推定される前提たる一定の事実、または分娩という自然的事実の存在につき、合理的疑いを容れない程度の証明度を具える証拠が要求され、情況的徴憑では不十分と考えられるのと、対照的であるというべきである。
いま、この見地に立つて本件を検討するときは、申立人はその主張のごとく南西諸島を含む鹿児島県南地域で生まれたとは断定できないのみならず、その他の日本国内において出生したと認めるに足る積極的ないし直接の証拠も全く存しないのであるが、前記認定事実によれば、物心がついた幼時すなわち四、五才頃において、したがつてまた出生から短年月を経たに過ぎない時点において日本国内に居住していた事実は明白で、かつそれまでの間に日本国外から連れてこられたものと窺うに足る何らの形跡も存しないし、もとより申立人が外国々籍を保有する等の証拠は全くない(申立人が朝鮮人であるという前記丙川二郎の供述は、伝聞によるもので臆測の域を出ない曖昧なものであると考えられることについては前認定のとおりである)のであるから、一応申立人について、その日本国内居住の連続性は推定されるものというべきである。
然かのみならず、同人は右物心がついた頃既に日本語を話し片言でも日本語以外の言語を使つておつたような情況は全くないうえ、現にその言語圏内の土地に生まれ育つた者でなければ到底話せない態様(ニュアンス等を含めて)・程度において、方言である九州弁を話し、その生活様式、習俗、翌慣その他の社会的生活行動においても地域住民のそれとの間に些かも異なるところがなく、開拓精農として信望が篤く、また申立人には南西諸島方面の平均的住民に共通した体徴の一部も看取され、「鹿児島県のずつと南の方で生れた」という申立人幼時の伝聞と暗合するものがあるので、これらの間接的事実と前記日本国内居住の連続性とを綜合するときは、申立人が日本で出生したものであることを高度の蓋然性をもつて推定するに足り、然らずとするも国籍法第二条第四号を合目的々に解釈し、申立人を価値的に「日本で生れた場合」に該当するものと認定することを許すに足る情況的事実は具えているものと判断するのが相当である。
四しかして、申立人の母は乙山アイ子と名乗つておつたというものの、それが本名であるか否か、また何処で生まれたものかも判然とせず(したがつて国籍も確認できない)、さらに申立人の父にいたつては、その氏名さえ明らかでないのであるから、父母がともに知れないときというに妨げなく、結局申立人は前記国籍法第二条第四号所定の「日本で生れた場合において、父母がともに知れないとき」に該当するものというべく、生地主義の法理によつて日本国民とされるものであるといわなければならない。
五そうすると、申立人は、日本国民として、本来本籍を有し得るものであるのに、未だこれを有しない者というべきであるから、当然日本国内に本籍を設定することを許容されるものであり、もとより同人に係る無国籍としての外国人登録も入管行政上の配慮に出た当面の措置としては己むを得なかつたものであるが、外国人登録法第二条第一項所定の外国人でない者に対する外国人登録としてその行政法上の効力は結局否定さるべきものであるといわなければならず、申立人に対する就籍許可を妨げるものではないというべきである。
六よつて、申立人の就籍許可を求める本件申立を理由があるものと認め、戸籍法第一一〇条第一項、特別家事審判規則第七条に基づき、主文のとおり審判する。 (石川晴雄)